2011年5月 のアーカイブ

月次祭のご案内 6/1(水)午後2時より

2011年5月31日 火曜日

境内の緑も色落ち着き、これから梅雨時期へと入ります。気候の変化に体調などお変りはないでしょうか。

6月1日の月次祭のご案内をいたします。

月次祭 6月1日(水) 午後2時より

月次祭とは、毎月一日と十五日に行う祭事です。(但し1月1日は歳旦祭、4月と7月の15日は大祭の為除く)ご祭神に世界平和、国家安泰、皇室の繁 栄、崇敬者の健康と安全等などを祈願する祭典です。また1日や15日は神棚に供えている榊や神饌などを取り換えるのに良い日とされています

参列に費用などは掛かりません。ご参列の後に拝殿前にある榊を持ち帰り神棚に供えてはいかがでしょうか。また6月30日(木)に行われる大祓のご案内も社殿前で始めました。(大祓の案内は後日お知らせします。)ご参拝をお待ちしております。(桃)

春祭り(上高見・諏訪社)

2011年5月18日 水曜日

前回の続きで、上高見の諏訪社を紹介します。

御祭神 建御名方命(たけみなかたのみこと)

由 緒 創立年代は不詳、高見町の産土神である。南北朝時代の越後は蔵王堂(現蔵王町 金峯神社)を分岐点とし是より北は北朝方、以南は南朝方の勢力範囲であった。高見は北朝方で下高見村の粉川氏・伊丹氏一族が属し、のち楠氏一族が当地に移住し、その勢力挽回に努め「楠」字の「木」を捨てて姓を「南」と改め、専ら荒野を開墾し時期到来の機を伺っていたと伝う。南氏の祖は農業の神、諏訪大神の御神霊を奉って氏神と定め、五穀豊穣の祈願をなした。これを以て当社の創建とし、境内社の十二神社は旧氏子中の邸内社で有ったものを当社の境内神社として移し奉った。境内は旧来鬱蒼としていたが明治初年の上地の際伐採し、明治三十三年、耕地整理に伴い境内地を整備した。

境内社 十二神社 (御祭神 大山袛命 創立年代は不詳)

上高見 諏訪神社

春祭り(高見町・結社)

2011年5月17日 火曜日

5月に入ると、長岡地域では春祭りが多い時期になります。

去る15日もも長岡市内高見町の結社と諏訪神社に祭礼を奉仕してきました。

一日で上高見の諏訪神社と、下高見の結社の祭礼を行いました。

写真等撮る余裕がありませんで、申し訳ありません。14日は大変な強風の天候だったんですが、15日は穏やかな五月晴れ。

子どもたちの神輿の声が境内をこだましていました。(この地域は大変子どもたちが多い地域です)

本年度は先に結社より神事を行いました。下高見 結社の由緒を ご紹介いたします。↓

ご祭神 結社・・・・・・高見産霊命(たかみむすひのみこと)

諏訪社・・・・建御名方命(たけみなかたのみこと)

由 緒 創立年代不詳、下高見町の産土神である。高見の庄はこの地方における最古の土地と言い伝える。社伝によれば、出雲系氏族の粉川氏・伊丹氏は当地に移住し荒野を開き、社殿を建立し天神高見産霊命を奉祀した事に始まるという。村名は神名に因んで高見村とし、神名の産霊(ムスヒ)を取りて「結(ムスヒ)」と社名と定めた。一族の長は城濠を築き、毎年の祭儀も全て怠りなく祭政一致の施策を執り、相当の規模を有し鬱蒼とした社木が境内を塞いだという。これが為に世人は権現様、高見の権現様の森などと称されたが、明治初年の上地の際古木は伐採され、社殿は維新の際炎上し一時は仮宮となり神社の形態を具備せず、境内地は私有地払下げとなる。また戦後は農地解放となり、加えて昭和三十六年九月十六日、第二室戸台風により社殿が倒壊した。昭和五十一年高速道路の開通により同地積に所在の諏訪社に合祀された。

結社上高見諏訪神社は後日紹介します。(桃)

月次祭のご案内 5/15午後2時より

2011年5月12日 木曜日

境内一面にケヤキの新芽が色づき、青葉の艶々した緑が境内を覆う美しい季節となりました。

5月15日の月次祭のご案内をいたします。

月次祭 5月15日 午後2時より

月次祭とは、毎月一日と十五日に行う祭事です。(但し1月1日は歳旦祭、4月と7月の15日は大祭の為除く)ご祭神に世界平和、国家安泰、皇室の繁 栄、崇敬者の健康と安全等などを祈願する祭典です。また1日や15日は神棚に供えている榊や神饌などを取り換えるのに良い日とされています

参列に費用などは掛かりません。ご参列の後に拝殿前にある榊を持ち帰り神棚に供えてはいかがでしょうか。また6月30日に行われる大祓のご案内も社殿前で始めました。(大祓の案内は後日お知らせします。)ご参拝をお待ちしております。(桃)

こどもの日

2011年5月5日 木曜日

本日、五月五日はこどもの日! ご自宅で鯉のぼりを揚げたり菖蒲湯に浸かったりする方もいるのではないでしょうか?

調べてみるとこどもの日とは、昭和23年(1948年)に「こどもの人格を重んじ、こどもの幸福をはかると共に、母に感謝する」と言う事を趣旨として制定されたようですicon_eek.gif

さて、こどもの日と関わりが深い行事が「端午の節句」ですが、これは本来五月五日を示している言葉ではありません

元々は「端」は物事のはし、つまりは始まりを表していたので、端午の節句とは「その月の初めの午の日」と言う意味で、毎月あった行事なのです

ですが次第に「午」が「五」に通じる事から毎月五日になり、その中でも数字が重なる五月五日のみを「端午の節句」と呼ぶようになっていったらしいです

昔は女性の為の行事で、田植え前に女性だけが家の中に閉じこもって穢れを祓う「皐月忌み(さつきいみ)」と言う風習と中国から伝わった端午が結び合わさったモノだとされています

ところで、何故菖蒲湯に浸かり柏餅を食べ鯉のぼりを揚げ鎧兜を飾るのかと言うと、これにはキチンとした理由があります

菖蒲の葉は匂いが強くその強烈な香気が魔を避けるとされ、鎌倉時代、つまりは武家社会へと移るにつれて菖蒲が「尚武」に通じ、また葉の形が刀に似ている事から男の子のたくましい成長を願う様になり、また鎧兜を飾る事で男の子を護る、と言う意味合いがあったそうです

また柏の葉は新芽が出るまで古い葉が落ちないと言う性質を持っており、それが「こどもが育つまで親は死なない」=「家系が絶える事がない」と言う縁起に結び付け、徳川9代~10代の頃に、元のお菓子はあったでしょうが「柏餅」として広まった様です

鯉のぼりも江戸時代、特に関東地方で広まったモノですが、中国の「黄河の急流にある竜門と呼ばれる場所を様々な魚が昇ろうと臨んだが、ついに鯉だけが昇り切りやがて竜になった」と言う故事を元にしています。鯉の滝登り、つまりは立身出世を表しているのです

当初は黒い真鯉のみが揚げられましたが、明治時代には緋鯉、昭和時代には子鯉(青)を揚げる様になりました。最近では様々な色の鯉のぼりがあるので、一概に男児の行事ではなくなってきました

たまに見かけるオレンジとかピンクの鯉のぼり、可愛いですよねicon_smile.gif

蔵王堂城から当社境内に掛けて、濠の上を鯉のぼりが優雅に泳いでいます。どうぞ参拝の折にご覧下さい(大)

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